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弁護士 宮本 督

エッセイ:
to be a Rock and not to Roll

2010.01.01

毎日のルーティーン

 旧年中は格別のお引き立てを賜り厚く御礼申し上げます。
 自分では信じ難いことですが、お陰様をもちまして、本年中に40回目の誕生日を迎えることになります。節目の年、改めて、地道ながら謙虚に努力を続けたいと心に誓っています。
 本年もご指導を賜りますよう、何卒、よろしくお願い申し上げます。

 閑話休題。
  将棋のプロを目指す人達は、地元で天才少年と称えられた後、東京か大阪の奨励会という場所に集められて腕を競うことになる。ごくごく稀に中学生のうちにプロ資格を得てしまう強者もいるが、多くの落伍者を尻目にプロになれる者も、早くて10代後半、遅ければ20代になってからである。そして一昔前の奨励会員たちは、将棋の修行に集中するため、中学を卒業しても高校へは通わないのが通例だったが、現在では、高校に進学するのが大多数だそうだ。プロになれなかった場合に備えて、ツブシがきくように学歴を身につけているわけではなく、その方が、将棋の修行においても成功率が高いからだ。
 主な理由として、生活の規則正しさがあるのだという。奨励会は月に2日の例会における対戦結果によって昇級・昇段を競うシステムだが、高校に通っていない奨励会員は、それ以外の膨大な時間をもて余してしまうようになる。その時間に、将棋の研究をすればいいとも思われそうだが、若い男の子のことだ。よほど厳しく自分を律しても、どうしても堕落の影が忍び寄る。それよりも毎朝、決まった時間に起きて学校へ通うという生活リズムの方が大切で、その方が、はるかに将棋の研究にも効率的に集中できるということらしい。

 作家の村上春樹は、『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で、私生活と作家活動の根底に、フィジカルに走り続けるという単純な反復活動があると語っている。村上は、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を出版した後、経営していたジャズクラブを人手に譲って専業作家になるのだが、その後、毎日走るという生活習慣を身に付け、数々の優れた長編小説を作り上げることになる。

 そんな天才少年達や世界的な大作家の話と一緒にするわけではないが、自分自身にも覚えがある。大学にもロクに通わず、卒業した後もしばらく司法試験の勉強をしていた頃、堕落して遊びに惚けたことはなかったものの、精神のバランスを保って勉強に集中し続けることの難しさを感じたことは幾度となくあった。私は大丈夫だったが、実際、精神的な病を患って、試験を諦めたり、長期の回り道を余儀なくされた受験仲間も少なくなかった。
  今の職業に就いても同じようなことは感じる。われわれの仕事は、会社勤めのサラリーマンと違い、決まった時間に会社に出勤する必要もないため、マジメなタイプであればあるほど、徹夜して書面を仕上げて翌日は昼頃に出勤したり、土日に催促された仕事を片付けて月曜日は休んでしまうような不規則な生活パターンに陥りやすく、そうすると、マジメな順番に自殺したり、うつ病になったり、そうでなくても仕事に支障を来すようになっていく例を、それこそ山のように目にしてきた。

  思うに、それなりのレベルでの知的活動を、長い期間に渡って続けたいと願うなら、日常生活の中に「ルーティーン」を一つでも、できれば数多く持つことが大切なのだろう。ルーティーンというと、マイナスイメージで捉えられがちだが、人生の中で、目指す仕事の高み以外の、必ずしもこだわりを持たない点にまで刺激を求める必要はなく、それらについてはかえって、毎日、同じようなことを繰り返すべきなのではないかと思う。そういえば、イチローは、毎昼、同じ味のカレーライスを食べていると何かで読んだことがある。そんなルーティーンが、生活にリズムを作り、精神に安寧をもたらし、肉体的な健康を維持し、それが持続力を生み出し、そうして得られる達成感が、再び、新たな仕事へのモチベーションとなるのだろう。少なくとも経験的にはそう思う。
  そんなわけで、私は、宿酔いの朝も、自身を無理矢理ベッドから引き吊り出してランニングに出掛けているし、その他にも、若干のルーティーンを極めて意識的にこなしている。もちろん、それら自体の先に何があるというわけではないが、そうして作り出される生活リズムが、村上のいうのと同じ意味において、「より善く生きるため」に維持することの必要な健康と基礎体力と集中力と持続力を裏付ける、私自身のライフスタイルそのものと感じている。